秒速5センチメートルを見た。なんだかんだ、ちゃんと見たのは1回目かもしれない。多分これまで5回くらい開いては閉じて、小説も手にとったことはあるし、誰かからDVDを借りたこともあった気がするし、新宿でシェアハウスをしたときに、高校時代からの友人が、家で何度も見ていた記憶がある。けれども、どうしてか、この作品だけは、ちゃんと見れていなかった。
秒速5センチメートルをみて改めて感じたことは、もう昔の時間には戻れないというのはやっぱり嘘だということです。
もう昔の時間には戻れないと感じた瞬間は、過去に戻れないと気付いたのではなく、今が今ではない。自分のなかに理想の自分はもういない。だなと感じました。戻れる戻れないではなく、今この瞬間という、人生で一番可能性がある命のかぎりを若いと捉えるか、老害と捉えるか。諦め半分、戻れないと考えるのは、今を老害と考えるのと同じかそれ相応に、人生が死んでいると思います。そして、純粋無垢に、未来が無限で、人生という大いなる壁が立ちはだかっていたあの頃の、なんだかどうしようもない運命や概念みたいなものを、今でも大きく感じながら生きていくことが大切だと思います。未来を知ったきにならない、壁がある程度もう無いと安息しない。
僕には、とてもほろ苦い人生がある。一途な恋愛物語といえば、それまでなんだけど、意外にもこの世界には、たった1人の女の子を愛し続けた男の子というのは少ないようだ。高校の頃も、7年も一途な人はじめて見た。その子は本当に幸せなんだろうね。と、学校の帰り道、下駄箱で、友達に言われた。これは、前に好きだった人のことを小学校3年生から高校1年生まで好きだったからだ。それは、両思いだったり、カップルだったら、そうかもしれないが、そうではなければ、ただの他人、もしくはファン、ストーカーと変わらないかも知れない。けれども、もしかしたら、それは、そう遠くない未来や、もうすっかり忘れていた数十年後の未来で、時を超えて、叶う恋なのかもしれない。けれども、もしかしたら、こういうまんまで、お互いに平行線をたどって、中途半端なところに安らぎをもって、2人とも死んでいくのかもしれない。
秒速5センチメートルは、ポスターになった一番有名な3枚の絵と、そのタイトルの響きだけで、
つまりは、情景と語感だけで、自分の原体験をすべて内包したり示唆している気がして、見なくても十分。という感覚だった。
桜の花びらが落ちるスピードは、秒速5センチメートル。そんな言葉だけでもう、儚さとか切なさとか、悔しさとか心臓がバクバクとなるあの高鳴りとか、夢のようで夢じゃないあの時の刹那的な緊張感とか、恋焦がれた時の自分が自分でいれなくなる感覚とか、もう、味わったことのある心情のかぎりをすべて、余すことなく見事に表現されていると思ってしまっていた。けれど、今日、なんとなく、しっかり見てみた。
忘れられない人って、どうしてこうも、うまくいかないのだろう。
どうして、うまく、言葉が出ないのだろう。
こんなに想っているのに、なんでいつも、傷つけてしまったり、傷ついてしまったりするのだろう。
ただ、好きなだけなのに。そこに愛があるだけなのに。たくさんのすれ違いを起こしてしまうのだろう。
そんなことを、僕も、たくさん考えてきた。16歳だったあの頃から、今まで、なんにも変わることのないこの悩みを、ずっと、考えて、生きてきた。気づけば周りもどんどん大人になって、自分もどんどん大人ぶって、4000日もの時が過ぎてしまったけれど、この気持ちというのは、廃れることもなければ、いまだに、どんな言葉にしたり、どんな行動をすればいいのか、自分の中では答えが、出ない。
全部話して友達になればいいだとか、思いの丈を告白してデートするとこから始めればいいとか、完全に縁を切って忘れてしまえばいいとか、そんなクソで綺麗な正論は、5000回くらい考えたし、近しい友人にもたくさんアドバイスをもらってきたり、笑われたり、呆れられたりしてきた。もしかしたらただ、勇気が出ないのかも知れないし、自信がないのかも知れないし、でも、なんか、格好つけるわけではないんだけど、単に自分のための話ではない気がして、しっくりこなくて。ただ、確実にいえるのは、身が焦がれるような恋をした、ということ。とっても苦しいけれど素敵な人生だと、誇っています。
秒速5センチメートルでは、
「幼いときの素直な記憶」
「純粋な心で分かちあう2人きりの切ない時間」
「順調な人生でも、ぽっかり心が空いていて、過去や未来に恋をする生き様」
「愛が時間をかけて、呪いや憎しみ的なものへ。”歪”になる瞬間」
そんな、たくさんの『恋』にまつわる心情が、ストーリーとして表現されていて、見ているだけで、胸がキュッとしてしまいます。どうしてこうも、一番心の深い部分だけを刺激してくれるのだろうと、新海誠さんの感性には痺れるばかりです。
かくいう僕は、すべてを味わったことがあるというか、今もなおその刹那を生きています。正直なところ、僕は女の子の友達は多いのですが、告白されることはほとんどありません。理由は知っています。僕が遠くを見つめているからです。たぶん、僕のことをいいなと思ってくれた女の子は、ほぼ全員が、それに気づいてしまうのだと思っています。遠い遠い、心の奥底で、誰かに恋をしているのだろうな。と、そういうものが、多分誰から見ても、本能的に察してしまうのではないかと、なんとなくそういう感じで、なにかが漂っているのだと思っています。
だってこれは、僕すらも苦戦していることだからです。忘れようにも忘れられない。好きとか、嫌いとかじゃなくて、忘れることができない。それはもしかしたら、良いことすぎるから、脳が絶対に忘れないようにプログラミングしているのかもしれないし、無意識のうちに、忘れてしまう自分が怖くて、自己防衛をしているのかもしれません。忘れるということが、良いことなのか、悪いことなのか、どっちともわからないけれど、10数年ものあいだ、人生で一番考えて、悩んで、それでもスッキリしなかったことで、これがあったからこそ、今の自分がある確率は非常に高い、ということです。僕はいまの自分に対して、もちろんカッコ悪いなと感じることも、直したいと思うことも無数にあるけれども、トータルで見た時に、とても満足度の高い佇まい、人生になっていると自負しています。となると、この忘れられない恋というのは、大きくいじらず、このままにしておけば、自分であり続けられるのではないかと考えてしまうほどです。恋焦がれるって、本当にこういうことだなって思っています。笑
で、秒速5センチメートルをみて、最後のエンディングで本当に泣きそうになって、忘れようと頑張っていた記憶が全部バーっとでてきて、ぐちゃぐちゃになって、全部キラキラした憧憬として蘇る。だけど、最後のシーンで、結局出会えなかったあの人。また今日も出会えなかった、ということが、どうしてか、前に進む動機になっていく。ここの精神性や身体性って、最も高次に近いものだと思うんです。直感として自分を高みにもっていくもの。
あの瞬間の自分や事象に対する「微笑み」や「哀愁」は、個人のアイデンティティを確立するうえで最も胆力や信頼性のある一つだと思っています。これが、【エモい】という語感における、本能的な究極の美しみだと感じています。
僕はこれからも、この十数年にわたる身を焦がれるような恋のこと、忘れられないあの子のこと、その時々の憧憬や感情。たぶんこれらを抱えて、絶対に失くさないように、生きていくのだろうと思ってしまいます。それは、これまで以上に大好きだと思える女性が現れたとしても、結婚をして子宝に恵まれて家庭を持ったとしても、たぶん、消えることのない記憶なのだと思います。それが何なのか?ということを、考えて悩む時間は嫌いになれないのですが、【前を向いて】そうではない感情を過ごすことも、人生において有意義な瞬間だと、感じられる大人になった気がします。あの子にまた再会したり、自分から会おうと決意してそこに向かったとしても、それは当然同じです。
秒速5センチメートルをみて「共感はできないけど、いつかこんな恋をしてみたいな。」と感じる人は多いでしょう。僕はまったくの逆でした。
「共感しかできなくて、目を背けたかったけれど、やっぱり見るしかなかった。」そう思える人生が今あることに感謝です。
身が焦がれてしまうような恋。10年を超える大恋愛。本当に大好きだったと言える相手がいたということ。いろんな意見があるのかもしれませんが、僕は断言します。
それは自分を幸せにします。自分を強くします。
今より豊かで優しさに溢れた人生を作ってくれます。
ということで、こういう日には、恋バナがもってこいでした。
メリークリスマス!良い人生を!!
PS なぜか違法アップロードされている動画があるので、みなさんで通報しましょう これで50万再生しかいってないなんて絶対おかしいので、訴えておきます