シンギュラリティが2031年?なのは本当かと思ってしまう。今年や来年に起こってもおかしくないと思う。

AIを使って教育事業の自動化ビジネスを行うサクセスラーニングというサービスを運営しているアドネスのみかみ社長。普段はHRに関する発信が多かったけれど、最近、世の中の実情みたいなことを技術的に発信し始めていて、見る視点が変わった。面白い。

まさにすぎる。

これは2つの視点があって、みかみ社長がクソほど頭がいいので解像度が成長とともにあがるという意味合いと、もう一つはシンギュラリティに近づいているという点だ。

シンギュラリティに近づく、ということは、デジタルデバイドが起こることと同じ。
シンギュラリティに近づけば、人はAIと区別ができなくなったり、落合陽一が散々言っている
「デジタルネイチャー」の世界での美しさに人間は立ち会うことが出来る

しかし、みかみ社長の視点はそうではない。
過去の感性を忘れるということだ。

おとなになると1年がすぎるのがあっという間、みたいな通説があると思うけれど、それと酷似している。これも、ルーティンワークが増えて退屈になるので時間の実感が薄い点と、時間軸は進んでいるのになぜか進んでいる感覚がないという点の、後者に値する。

労働集約的に時間を捉えれば、例えば動画編集には10時間かかるけれど、AIに任せたら10秒で終わる
みたいなシンギュラリティが訪れるので、相対的に時間の感覚が鈍っていくのだ。

そうすると、人はみな、その時間の感覚になれる。
高速道路ではじめて一人で運転したときは、早すぎて首都高なんて走れない!と思ったのに
気づけば120キロで走ってもなんとも思わない、あの感覚と同じだ
はじめて高速道路に乗ったときの感覚を思い出せないということ

これは、日本人の価値観と相反する。
侘び寂びや京都の悠久は、長い年月変わりない美しさだったり、時間軸の変化を美的に考える価値観だからだ。

シンギュラリティが訪れたり、現代のショートコンテンツを、乗りこなさないと置いていかれるような強迫観念は、ある種、カウンターカルチャーとしてY2Kや70年代のファッションムーブメントが生まれたモメンタムともつながりがあるんじゃないかな。

ショートコンテンツを乗りこなすことも大事
みたいなカルチャーは、間違っていると思う。なぜならそれは乗りこなさないとという諦めだからだ。

ジェットコースターに乗りたい
高速道路を120キロで走ってみたい
シンギュラリティの時代をみたい

そのような価値観がしっかりキャズムを超えていかないと、つねに生産性を鑑みて、ショートかロングかを判断するような生き方が正しいらしいポピュリズムに変容してしまうだろう

シンギュラリティという加速度的な時間軸がもたらす価値観のゆさぶりがキャズムを超えたとき、人類は、あえて田舎を選んだりするのだろう。

そこにサブカルやエンタメの次の道筋があると思う。


ThanatosGamesとしても、ただ楽しむという享楽を是としたエンターテイメントを提供したい。キャリア論、しごでき論みたいなある意味乱雑なカルチャーに迎合するポピュリズムの中で、生産性や比較、競争を度外視した自身の心から湧き上がる面白いという価値観を大事にできる人をたくさん作っていきたいな。