はじめまして。この記事は、数年後知らない人が検索し読んでいることを想定し、執筆しています。エンザントモアキです。21歳から9年間、月額1万円の初学者向けビジネススクールの経営/マーケティングに従事しつつ、国際活動や海外事業に興味のある大学生に向けたセブ島でのスタディツアーを主催し、エンターテイメント企画を100人以下の小規模で開催してきました。便宜上の仕事は上記で私の
目的意識としては
・実際に取り組むことでインプットをするいわゆる【修行】
・『20歳行動・30歳~思考』ではなく『20歳思考・30歳~行動』
・ライフスタイルに影響する『居住』と『旅行』についてのスタンスを完成させる
でした。解像感を高めた具体の目標や、頑張っていたことは以下
・多拠点生活のタイムマネジメント、いつ航空券をとるか、予定の入れ方
・シェアハウスの運営、住民のLTV向上、家族と仕事仲間の定義と修正
・パリでWeWorkを借りて仕事をする、セブ島で銀行を作るには?を知るなど
そもそものお話(2013年)

私は、気の知れた友人と原付で日本一周をした。高校2年のとき私は『衛門』だった。『蚊』との雑談をみたり、VIPマリオやら6ポケをみて、ニコニコ動画2生息するゲーム配信者をウォッチしては、よーらいさんという配信者にたどり着いた。ある日の夏、「実写版ぼくのなつやすみ」という動画が上がり、すごい興奮をしたのを覚えている。ざっくりと「こんなライフスタイルをしてみたい」ということだ。

のちに、彼らのオマージュ元が「水曜どうでしょう」だったことを知り、僕は10代のうちにさっさと真似してこの感性に近づきたいと思った。結果的に沖縄を覗く、46都道府県を原付で真冬に周り、当時のアメーバブログに旅の過程を毎日更新するライフスタイルになった。この経験は今でも非常に鮮明に覚えており、手触り感の濃い成功体験のようなものになっている。「そうだ。求めていたものはこれだよ。」そんな高揚感をいつでも記憶の片隅から引っ張ってくることが出来る快楽を覚えた。
旅とは人生?でも旅じゃ人生変わらないしな(2014年)
その後、わたしは発信場所をツイッターとはてなブログに移し、雑多なアメブロの読者(とはいえ数千人~数万人が見てくれた)から、もう少しパーソナリティが濃い人向けに発信するようになった。どういうことかと言うと、自分のように面白いことをしたい人とか、この経験を名刺に、自分のキャリアに繋げようという考えからだった。

地元が湘南茅ヶ崎という自由な風土で育ったがゆえ、大局観として「無目的性」を非常に重視している。これは私がだ。
そもそも、生産性とかキャリアアップとか、所謂ビジネスライクな思想設計というのは、生きるという目的を逸れ、手段が目的化しているという負の感覚があった。これは今でも変わらず大事にしているが。とは言っても盛んな20代、面白い友達から経歴を聞くと、大体なにかを形にしている猛者はエリートだ。慶応の幼稚舎からエスカレーターだったり、小さい範疇でも親が個人事業主や飲食店の経営者だったり。両親がサラリーマンと看護師の私からしたら、スタートダッシュとポテンシャルが明らかに遅れており、その多くは「リテラシー」だなと結論付けた。圧倒的なリソース不足。4-5歳から海外や素晴らしい本物との接触、自然や習い事との出会いが15年ブーストされている彼らが面白いことを思いついて、それを軌道に乗せるのと、私が思いつきで、妄想を形にするのでは、成功確率が格段に違うと踏んだ。ここでは話を戻すのだが
正しいリテラシーがないと、旅をしても吸収力がない。
と考えた。だからこそ私は日本一周という憧れを踏襲したのちに、乱雑な世界一周などというライフステップではなく、独立しビジネスマンになり、都会に住むという道を選んだ。結果としてこの判断は最高に正しかったと、30歳になった今思う。

起業の勉強をしたかったら実際に起業をすること?本当かな(2015年)
クリシェ(俗説)として、このようなフィードバックがあると思う。私はこれに斜めから異を唱えている。それは、起業をするなら、様々な起業家と仲良くなることが正しいと考えたからだ。

英語ペラペラになりたい。それなら本質的には、英語の勉強をするよりも、アメリカで働くよりも、アメリカ人と友達になる方がアメリカを知れる。もっと言えば、外国人と友達になれば、世界を知れる。旅に行くとかではない。要は「自分が起業したら、アメリカしか知れないじゃん」的な考えに帰結し、最も合理的に、最短ルートでハイポテンシャル人材に追いつくコースを見極めた結果、ビジネスに興味がある人が勉強しに来る場所で働くことが、主に考えていることを形にするリテラシーを学ぶ超絶合理的な手段だろうと納得した。ロボットみたいと思うかも知れないが、私は目的意識だけは異常に高い人間としてポテンシャルが元々あり、MBTIも指揮官である。w

結果として、東京でいろんなところに顔を出して目利きをしていたら『ALLROUNDER』という完全紹介制の会員数(スクールサービスを受けている顧客)が当時200人ほどの事業を友人との飲みで知り、誘われたのではなく、親友に「俺をそこに良い感じで入れてほしい、運営とかやりたい」のようなオウンゴールならぬオウン勧誘をして、ビジネススクールの経営に携わることで自分のリテラシー、戦闘力を引き上げることを目的に、月額代金を払って速攻で入会した。無論、目的はビジネスリテラシーをつけることだった(ちなみに現在もこのALLROUNDERはサービスを継続していて、私は自身の目標を果たし区切りをつけて、従事を完全に辞めてしまったが、結果3500人ほどの会員が入会した事業として成長し、某上場企業や、某証券会社やら某ゲーム会社の人たちを世に輩出した。無名からキャッシュポイントだけでなく、ソーシャルインパクトを生み出すビジネススクールは稀有だと思う。彼らが元々能力が高かったことは批判の余地があるが、本当に価値がなければ、いわゆるすごい人が興味を持つこともないだろう。)私の従事成果もそれなりだろうが、それ以上に当時の目利きを褒め称えたい。自分軸で目標達成なのだから。

図らずしも海外でビジネスごっこをすることになる(2015年)

この初学者向けビジネススクールは、基礎的な経営やビジネスまたは社会人としての姿勢やマインドセットに関する網羅的な知識を動画教材として受講させること、ないしオフラインの『コンテンツ』と呼ばれる授業で、生徒同士がインタラクティブに勉学したことを擬似講師として教え合うラーニングピラミッド方式を採用していた。また、ある程度インプットが進むと、次は「学んだが、実践できない」という課題が生じるためPJ創発型の事業伴奏サービスを走らせていた。当時はその0→1だった為、それなりに勉強して、SNSで影響力や発言力の強い若者と繋がっていた私は、なぜか日本一周やら自転車で北海道まで爆走した実績と経験に期待され、海外系のプロジェクトを任されることになった

当時ここの代表(最初は自営業でのちに法人化した)に言われた経営ビジョンは「オフショア開発をして東南アジアの若者にもビジネスを学ぶ機会を」ということだったが、大学進学も政治・経済を重視し、旅自体も、世界的な情勢やら文化と価値観の変容に思慮深かった私は、このとき東南アジアにバックパックしていた経験も含めて、直感的に「絶対そんなのムリ。」と思っていた。すごく乱雑な言い方にはなるが、半ば強引に任されたプロジェクトゆえに勝手に方針を変えて『旅をしたい若者向けのスタディツアーの成功』と『東南アジアでのゲストハウスの設立&PJメンバーでの共同経営』という経営ビジョンに切り替えた。ちなみにフィリピンになった理由は、当時の立ち上げメンバーの一人にインドネシアの東大みたいなところで学んでいた先輩と、マニラの財閥と繋がっている先輩と、セブ島で個人事業をやっているハーフのフリーランサーが近くにいたので座組としてセブ島でやろうと流れでなっただけで、代表になった私の意向はまったくなかった。結果的にその座組とビジョンは崩壊したし、ゲストハウスとスタディツアーを軸にしてからは、とってもスムーズにプロジェクトコンテンツの内製化と、実態のある経営ビジョンに達成に向かっていった。ここらへんで一番考えていたことは「世界一周とかインフルエンサー目指すよりも、目の前で困ってる人向けにサービスを作ったり、一緒に海外行ったほうが、いろいろ世界知れるし現実的じゃん」ってことだった。
『大阪』にノリで移住した(2016年)

2015年からセブ島に頻繁に行くようになり、当時の立ち上げメンバーは7人いたのだが5人いなくなり、私ともう一人だけになった。ちなみにその一人とは死ぬほど相性が良くて、二人三脚でうまくいった。メンバーの入れ替わりは激しかったが、このPJ創発型コンテンツの中でメンバーも大量に集まり、スクール生以外との関わりやフロントイベントへの留学斡旋事業者からの広告費なども貰えるようになり、リアルで関わってるメンバー(顧客数)が170名前後だったと思う。東大とか母校とか中学校で呼ばれて喋ることも増えた(当時は社会的実績に浮気したが結果どうでもいい)Global Business Projectというクソでかい名前でやっていたのだが、おかげで規模のでかいグローバル事業展開を目指す同世代も何十人と出会え、当時第一志望だった早稲田の政治経済で授業を受けるより多分、世界(リテラシー・実態)が知れたと思う。大学2年と3年のあいだの時だ。非常に楽しい学生起業家ライフだった。同時に、頭の良いやつはこうやって世界を見るんだなという気付きも貰えたし。NPOがいくつか立ち上がって、フェアトレード企画をしたり、HISとのツアーが組めたり、何より色んな国の話がリーダーをしているだけで入ってきて刺激的だった。こんな独立の仕方あるんか?って感じだった。

そんな鼻が高くなっている時期、よくヒッチハイクで偵察に行っていた『大阪』で縁があり、のちに引っ越すことになった。実際はスポーツHR事業を画策する先輩(現在アミューズやSMBCをシリーズAで調達するスポーツアセット領域のファーストペンギン起業家になる)が、早稲田卒業に併せて講演会をするので、ちょっと起業家として喋ってほしいと言われて出た帰りに中央線で「大阪、オフィス構えて引っ越すから、この家貸してあげよっか」と言ってくれた。そのとき私は、新宿の事務所をシェアハウスとかコワーキング的な利用形態にして、プロジェクトに関わる人に任せて修学旅行みたいになっていたので、家賃の心配もないし、人も大量にいたので、自分がどこに住むかの「片足が空いている感覚」だった

19歳で日本一周をしたときも「このテンションで意思決定したらおもろい」の感覚通りだったし、前述のビジネススクールで働こうと思ったのも同じだ。中央線に揺られながらスポーツの先輩に「もう一人見つけて家賃折半で住ませてください」と言って、確かその1ヶ月後くらいに住んだ。また1ヶ月後にはもうひとり住民を増やし3人で家具やら食費を割り勘した。家が福島、野田阪神あたりだったのだが、住民が大阪生まれの友達を紹介してくれたり、こっちの面白系イベントに参加したり、主催したりと、すぐに友人だったり仕事仲間だったり、セブも含めてお客さんが出来た記憶がある。そして驚くべきは新宿の事務所も、東京100%だったプロジェクトも知能労働をしたり、組織づくりができるようになったからこそ、私が物理空間にいなくても、スクールサービスやコミュニティーやパッショナブルな業務が成立することに気づいた

「もしかして、多拠点のが効率いい?」と思い始める(2017年)
私は20代リテラシー向上の名目がありつつも、別目的で、旅ではなく居住の地を探すというモチベーションもあった。プロジェクトやサービス自体の大阪展開することを折衷案として、地元が湘南で、大学が水道橋で吉祥寺に住んで、ようやく自分だけのリスクで家賃を払ったのが新宿で、その後の大阪。ここの再現性がすべて実力になり得ると思っていたし、結構頭を使って、人生のためにイマジネーションしていた。
その解決策が『コミュニティ』という括りだった。思い返せばスタディツアーもゲストハウスも、そこにいるユーザーのインセンティブは『海外で働きたい』よりも『海外のビジネスを成功させたい』よりも、そうしてもがき苦しむ過程で大切な仲間と切磋琢磨をしたいだと深く感じた。求められているのは人的資産でも、実績と経験でも、キャリアパスでもない。そこに固執すればするほど歯車は噛み合わなくなり、一番近くにいる仲間、かつてペルソナだった育成した後輩が楽しくなさそうにしているなと感じた
実際に取り組むことでインプットをするいわゆる【修行】 |
『20歳行動・30歳~思考』ではなく『20歳思考・30歳~行動』 |
ライフスタイルに影響する『居住』と『旅行』についてのスタンスを完成させる |
自身のインプットのため、目先ではなくなるべくリソースが思考力に依ること、そして旅ではなく居住的価値観を深め地域を選定すること、スタディツアーやゲストハウスを頓挫しないこと。これらを鑑みて、今自分がなんとなく飛び込んだ大阪でのライフスタイル実験が、あまりにも感触がいいことから、この2017年にこれまで定めていた『東京・地方・海外でのマルチハビテーション』というなんとなくを、すごく考え『東京・大阪・福岡・セブ・湘南・横浜・ロシア・ヨーロッパで多拠点生活をする』へ解像感を高めた。毎月1回はどこかに旅へ行くとか、経済成長率やセンシュアス指数の高い地域などリテラシーの高い地域に住み、またスポットで行ってみたかった面白みを感じた地へ訪れることを何十回と繰り返した末、この地域を選択した。

ビジネスの定石として『選択と集中』があるが、まさにライフスタイルの選択と集中だと思う。そのために仕事は固く、旅は広く、極端な考え方に基づいて、無駄なことやフリーライド出来る可能性に賭けたり、無本位な魅力を多方面に発信することを嫌い、順調だった。そうして4年ほど賭けて見つかったのがこのエリアの選択だった。
ここから、摩訶不思議な目標達成へのゲームが始まったのである。
『修業』『思考』『居住』で駆け抜け、振り帰らない(2018年~2023年)
選択できるものが見つかってまず目掛けたのは、すべてに同時に住むというライフスタイルは一体どうなるのか?ということだった。コミュニティの広がりというのは立体的な世界線があることの実感がベネフィットの一部になると肌で感じていたからこそ、7,8拠点すべてに仲間がいて、アウトプットがあり、物珍しいプラットフォームの途中経過があったり、それぞれが非同期コミュニケーションでつながり、好きなときのエントロピーで各自がティール的に発散する。それが理論上、というか私のキャパ的に可能なのかを検証することにした。
のちにこの居住地域選択のビジョンは『湘南』『天王寺』『糸島』『ニセコ』『セブ』『パリ』『サンクトペテルブルク』の7拠点で秘密基地をつくる、というビジョン、そして時代のエベレストをつくるという理念に昇華することとなる、その過程が以下である。






































2024年。ついに湘南、天王寺、糸島、ニセコ、パリ、セブ、サンクトペテルブルクの7拠点で生活し、秘密基地をつくろうと動く、という1ヶ月を作ることに成功する






1ヶ月半くらいの出来事。ここ目掛けて走ってきた。29歳8月4日までに実現すると決めた24歳ごろ。結果、29歳3月31日に、この人生設計という自分で決めたステージをクリアした。
コロナがあって2年も海外に行けない状況が続いたけれど、別に住んでるわけじゃない地域も多いけれど、実感として、やりきったなと思う。
