このような知的財産権いわゆる「IP」討論は、ネットワークアクセスが容易になり、作り手が大量発生し、低コスト短時間でデザインの商用化が可能なアプリケーションの台頭により加速すると思う。
僕が手がける予定の「DO NOT ENTER」という趣味の範疇で行うアート活動も、類似性やいかにオリジナルでないと容易に想像できるか、批判性の高い距離の置き方をしているか、際立たせるかという点では悩みどころである
タイトル通り、権利者が告訴しなければ罪に問われない「親告罪」という特性であるがゆえ、パロディとパクリの明確な違いはなくとも、いわゆる尊重というより実質的には
「これは尊重している」というイメージを容易に与えることができたり、実質的にオリジナリティのある市場で拡大している商業であること、また反社会性をもたらす可能性が低いことさえ気にしていれば、目の前に現れる”リスク”ではないのだろうが、
そこまでの文脈を踏襲した上で、ある意味での”丁寧な創作”ができる表現者は少ないだろう。
なぜなら現代アートにはじまる社会批判的文脈をもたらす意義に価値を見出す多くのアーティストは、いかに批判性の高い距離を際立たせるか、想起させるかというところが テーマであり、モチベーションだからだ。
法律の穴をかいくぐった商売をするというよりは、正々堂々アーティスト活動としての権威や社会的意義を実証し、世間一般に求められる存在として認知獲得を怠らず、創出された市場に将来性があり、社会的活動を促進するものとして、つまりは売人ではなく表現活動としての頭角を愚直に表していくことが市民権を得る勝ち筋であり、
嘘から出た誠ではなく、世間の待望する社会に根ざしたコンテンツの更なるアウフヘーベン
コンテクストや観念の正確性を促進する意義として成立させていくことが課題になるだろう
ものを作れば売れた時代から、ものが大量に溢れ、リバースエンジニアリングとしての生産が期待されるなか
どこまで物質化し、どこまでの深度で進めていくのかは、やはり世論が潤滑油にもなり、歯止めをかける消化器にも化けてしまうということだ。
盗作という言語表現にある一定の共感性が内包するなか、IP社会はアーティストに世知辛いが、それすらも凌駕する魅力を僕自身もあげていきたい。そして、世界中のアーティストにも勇気を与えていきたいと思う。