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運動会の準備をしていた。

見たことのない校舎のようだが、多分ここは円蔵中学校だ

その前に徒競走をしていたのか、わからないけれど疾走感、現場が動いてる緊張感があった

「職員室の装飾は寸前まで授業してるから厳しいんです」と先生に言われた。これはガチ文化祭のように、再現するイベントの打ち合わせだ。そうだよな寸前まで授業してるし、先生に”職員室”を作ってもらうのはちょっと無理があるよな と思った

職員室は校庭の徒競走の一番遠回りのとこの外に杭をうった柵のすぐそこに立てていたが、準備時間が足りなくて椅子とハリボテの何かしかなかった

運動会が始まった、途中で余興みたいのがあり、高校の友達が一躍買っていた。曲のいい部分でパフォーマンスをするのだけど、その内容は寸前に画期的なアイデアで決まった

半分に切った竹にそうめんを入れて、割り箸を渡してみんなで食べると言うものだ 竹の端からそうめんがうまく流れるように作られてて、具体的な構造は忘れたけど、めちゃくちゃ画期的だなーと思った
左側にタッパーを置いてて、竹の穴とプラスチック製の後から足したツールの穴がぴったり、穴あけホチキスで開ける穴にぴったりのような感じだった

それを高校で受験のころ仲良かった奴がやってて、受けてたんだけどどうにも毎回そうめんを持っていく効率が悪くて俺は指摘した もっと近くで歩いて持ってけばいいし、演奏してるやつと曲の転調が合わなくなりそうでヒヤヒヤする的な

そうしたら「やってみればわかるけど、めちゃくちゃむずいんだぞ!」と軽く不貞腐られた

確かにそうかもと思った その穴に濾したお茶を入れるのはどうか的な提案をすると「俺めっちゃお茶詳しいけど、そんな知識じゃ無理だぞ」みたいに言われた

下駄箱てまえの投稿する少し小上がりのところの左端で俺はちょっと格式高そうなお茶の葉っぱの濾しかた、というか抹茶の作り方的なのを勉強しようとしたが、よくみると900円で買えるそれで、あいつの言う通り、こんな浅はかなもので勉強しても意味ないと自分が恥ずかしくなって、この練習をあいつに見られるのが嫌で下駄箱側に移動した

下駄箱は図書館みたいになっていて、運動会はまだ続いていて、盛り上がっている。ここは静かなところだ
東京に出てからとても仲良くなったやつのまだみんなに知られてなかったころというか、出会った当初に特集されていた本を見つけた
これ今の人たちは知らないんだろうなとペラペラ見ていた
1番見たかった本がなかなか見つからなかったけれど、たくさんあって、なんとなくこんな感じと思い出せたから割といい気分になった

放課後の下駄箱を上がるような気分で、教室を覗きに行った。1階が1年生、2階、3階と学年が上がっていき、3年生までだった からここは中学校なのかやっぱり

友達に会った。なぜここにいるかは知らないが、楽しんでるのか偶然いたみたいだった
教室に入ると自分が小学生だったころの思い出のパーツが残されていた

マンタが一番右上の生徒椅子よりかかっていて、あれ、このころには持ってないぞ、俺が今日のprのためにおいたのかなと考え、左後ろの席を見ると、ぱみゅぱむ とか席一つずつ開けて紙に書いてあった

これは高校の時に俺が自由空間で遊んでいたビリヤードでいっていた、、ボールが入るときの「ぱみゅる」という造語の元かもしれないと、なにかを思い出しそうになった。けれど明確なことは思い出せなかった

次の教室に行くあたりで、さっきいた友達が追いついてきた 俺の追憶を一緒に見るらしい、 一緒でも一人でもどっちでもいいと思えた 恥ずかしくもないし、寂しくもないし、なんか不思議な気分

2年生が中学生みたいな感じだった 友達がパラパラ漫画が入ってすぐの席にあるのに気付く これは幼稚園から一緒のあいつが書いた漫画だ そいつの存在をこの瞬間に思い出した

そういえば、あいつのおかげで中学の部活も入ったんだっけ。高校も一緒だった?いやちがうかな なんか忘れたけど、いや一緒だな 途端に高校で影が薄くなったのを覚えている。昔はその周りと遊んでいたな、それは小学生4年生くらいの記憶だ、なつかしい。このころ、ずっと川にいるでかいカエルの鳴き声が不思議だったのと、でかい生き物すぎて、石を近くに投げて、川面から跳ねる音のデカさを夜まで楽しんでいた記憶も蘇ってきた

高校の教室 3階まで行ったかは定かじゃないけれど、多分行ってないかな このあたりで窓から外を見ると、プールの監視員みたいな高台から仕切ってるやつがいた。うわ、あいつだ。そいつはゲーセン時代に出会った近所のやつだった
現実では繋がってないはずなのに、友達が「あ!XXXのことしってるの!?」と驚いた様子で、俺も驚いた。

思えばあいつがいたから今の自分がいるようなもんだ
すごいきっかけをもらったなあと思う しかしそいつは友達によると高3まで統合失調症で苦しんでいたらしい
最近全然連絡してないけど、元気なのかな 少し心配になってきた

そうして、運動会は終わりを迎えていたが、俺は一回の一番奥の階段まで降り、放課後のような時間を友達と過ごして、なぜかハンバーガーの中に何を詰めるのか的な話とともにエモい気分になって、現実に戻ってきた

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今日はノスタルジックな夢を見るなーと思って寝たら、やはり良い夢だった

明晰夢ではなかったけれど、意気込んだら見れたし、とても深い考察ができたし、運命を繋げられそうな忘れていた記憶のパーツを取り戻すことができた

最近千と千尋の神隠しにハマっていて、非常に思い入れの残ったセリフが

一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで…

というもの。これに近い憧憬を移してくれたのかなと思う。

SNSのメリットがここにあるなと思った。誰しも始めた時の若いころ、同じクラスだった友達と相互フォローになってるけど、風化している相互フォロー どちらかが外しているけれど、どちらかのデータには存在していて、定期的に思い出せるいわば、この夢日記のようで、メモがあるから思い出せる

けれど、完全にSNSを経ってみると、あの風化されたフォローフォロワーの関係すらも消えてなくなり、自分が小中高校大学時代に培った、今日まで活用されたり再開してこなかった人間関係を記憶が薄れ、やがて完全に忘れてしまうのかなと思った

僕はこうして、心の中から大事なパーツを見つけたけれど、それを大事なパーツだと思えずに、ただ感嘆と懐かしいと消化して、やがてフェードアウトしていく追憶からデリートへのフローはとても多いのかなと思った

もちろんそれらはリアリティを持たずに残骸であり、粗悪品かもしれないが、ある意味での雑味であり、哀愁であり、必要なノイズともいえるし、益のどうこうではなく単に、ああ、懐かしいなと定期で振り返ることができたり、似た縁を2周目で紡いだりする運命かもしれないし、なんだか不思議な感覚に陥る人生でも稀に見る貴重な体験であるのだと俺は思う

閉じていくおもいでのなかに わすれたくないささやきをしる

うみのかなたにはもうさがさない かがやくものはいつもここに わたしのなかにみつけられたから

という最近口ずさんでいたあのフレーズが、まさに具現化されて夢が頼もしい

SNSがあればそれはそれで、SNSをやっていない人のことをなんだか存在してない人間のようにカウントしてしまうし、考えるよしもない

SNSをやめてみると、あの繋がりが希薄かし、今にフォーカスされるけれど、こうやって何かの運命を信じてみれば、拾うことができたりもする

僕はSNSをやめることで、この人間関係が端的で続いていないような関係がとても、過去の彼らを丁寧に自分の人生として追えて愉しみがある

過去の彼らはどうしているのだろうではなくて、過去に過去だった彼らと過ごしたあの日々を美しい風景として記憶して、その中から自分のノスタルジックな美意識いわゆる侘寂を自分なりに解釈する楽しみを覚えたい

再会することが依然プラスになる文脈ではなく、目に見えるもので価値判断をしたり運命を感じるのではなく、目に見えてないところまで考慮して生きたい

直感とか第六感のような、なんとなく無視されているスピリチュアルスポットを自分なりにハックして生きろ

どの景色を普段から見ていたり考えることに努めれば、夢の中で忘れられた記憶を呼び戻せるのか、そのギミックを攻略せよ

センチメンタルな快楽として懐かしさを消費するのみならず、意思を持ってその運命を未来とか、5分後の未来に運命として手繰り寄せる命綱をいくつも用意しよう

僕にとっては今日まで死んでいた彼らを蘇生させたことを、彼らに伝えることで、彼らの中でも、僕らが息を吹き返すはずだから。