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>>> いまは、「めちゃめちゃ量の多いラーメン」は、ある種の「祝祭」として捉えられているとおもう。

ひごろ食べるものではないから、その量の多さも「楽しみの一環」としてとらえている。お祭り屋台での食べ物と同じだ。

仲間を誘って、おもしろいもの、でもちょっと怖いものとして、祝祭的に来店する人たちが増えているとおもう。

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>>> 量が少ないと感じられた瞬間、量に対する心配がなくなり、脳の中が味とだけ対峙する状態になり、すると、ただストレートに、めちゃくちゃうまい、と感じたのだ。

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>>> 途中からは、頭のなかは「量」のことだけになっていく。ただただ全部食い切ることだけが優先事項になり、脳のなかの「うまいかどうかを判断する部分」はずっと停止してしまうのだ。総合的な記憶としては、うまかったはずだけど、よく覚えてない、ということになってしまう。

たぶん「食べきれるかどうか」は極端な言い方をすれば「生きるか死ぬか」に直結する大変な問題なのだろう。そういう場合「うまいかどうか」はかなり後回しになってしまうのだ。動物としてしかたない。

そうなんだよね。好みになったお店がなぜ好みになったのかを説明したいがために面半分にして味わうという「仕事」は二郎を愛するあなたがあなたにとって、またあなたの周りの人をジロリアンに勧誘するためのセールストークとして絶対に受けなければいけない研修なのだ。

ラーメン二郎は祝祭であると、俺と全く同じワードチョイスをしていて、このひとは多分言語化するのが俺と同じで好きなんだろうけど、ほとんどのジロリアンも感覚的にそう思えているはずだ

そう。二郎は祝祭。

新しいゲームが出たら開店前にお店に並んだり

修学旅行や海外旅行の前日に寝れなかったり

別にもっと庶民的でもいい。新台が入荷したパチンコ屋に並ぶおっさんの行列

好きな子にいつもと違う攻めたテキストを送った後に既読がついて、返信が返ってきた瞬間の

一瞬地上からふわっと浮いた気がするあの感じ

こういう、誰もが経験することを無条件に許されている祝祭

そんな祝祭がここ日本だと気軽に味わうことができるのだ

だからこそその祝祭を自分のものにしてみたい(家で食べてみたい)というのがあってやっていることだけども

毎日祝祭というのはやはり違くて、ある程度手に入れてしまうとなんだこんなものかとなる

クリスマスプレゼントの値打ちは箱のリボンを解く前が一番価値が高いのだ

なかになにが入っているか認識できている必要性はない

それよりかはそこに存在する佇まいと緊張感 シチュエーションの方がよっぽど大切

ラーメン二郎は再現性を持って広がった祝祭性が最高の空間だ

だからこそ麺半分というどの店でも与えられているその選択肢

これをすることで、ゲームを家に持ち帰って安心できる場所でプレイできてしまう

憧れのあの人と付き合えてしまった

プレゼントの箱を開けて、中身もすべて開け終わってしまった

修学旅行2日目の朝になった

こんな、実際に現実的に、自分が手に負えるだけのものに、所有できてしまった

ある種の虚無感が、祝祭性を損なわせている

このゆらぎを楽しむのが人生の醍醐味なのだから、

家で二郎を毎日作って食べるのも、ラーメン二郎に通って麺を半分にしないでちょっと無理するのも

どちらも絶対にやめられないんだよね。

二郎ってやっぱり二郎なんだね。。。。。
日本最高だよまじで。