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>>> 戦争を放棄し、決闘が禁止された現代社会では、「人はどうやってデストルドーとつきあっていくのか」を考えることが重要になってきます。さもなくば自殺が社会からなくなることはないでしょう。

庵野秀明監督は、このテーマに真正面から挑みました。『エヴァ』とはまさに、自殺大国日本に投げかけられた、自殺との戦いを描いたアニメなのです。

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>>> デストルドーを自我(内部)に向けると、シンジがそうだったように、人は自殺に向かってしまいます。しかしデストルドーは根源的に人間に存在していて、人はそれに抗うことができません。では人はどのようにデストルドーを処理すればいいのか。

その答えは外部に発散すること、つまり、「人に向けること」です。

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>>> 監督の用意したデストルドーに対する答えは「愛する他人に憎しみを向けること」で、それ故に劇場版26話のサブタイトルは「まごころを、君に」であり、英字タイトルは「I need you」(君が必要)だったのでしょう。

シンジがアスカに向けた憎しみ(首絞め)は、アンビバレンスな愛情でもあります。この愛憎の感情こそが「まごころ」でした。

アスカもまた、シンジに対して「気持ち悪い」という憎しみの言葉を向けながら、首を絞めたシンジの頬を撫でるという愛情を向けています。

フロイト精神分析を基にして、エヴァンゲリヲンの庵野監督のメッセージを予測する記事、
現代の風刺、求められているメッセージ・心理的安全性を保ちながら伝わるメッセージとしては、とても強烈で味気ある考察

実際、これを読んで気付かされたことも多く、thanatosという題材をアート化して商用化したい僕から見ると、
それとなく、naturalに使っている言葉の端くれが見えて、枝分かれした構成要素の言葉たちは、どれも人々を揺り動かすだけのエネルギーを秘めているなと思いました(愛 とか 憎しみ とかね)

「どう?こうなったら日本が【&&みんなが、オマエが】やばいよ?」

そんな、哲学に隠れた強迫観念がフラフラと世界を闊歩しているけれど、それを美しいとは思えないなあ。

Quod Erat Demonstrandum. らしき結末は、正しさを認めなければいけないものではなく

ある1視点の熱意による「証明されなければならないものの”可能性”を説いている」

に過ぎないと思う。

thanatosのつかいかた、デストルドーの使い方こそ、目を離さず見なければいけない(と僕は思った?)テーマなんですね。

エロスやリビドーや、人生の楽しさを丹精込めるよりは、ね。
得意なのはどっちもじゃないとなあ。

皆さん、映画業界、アート業界、哲学業界、アニメ業界、このすべて。明日、これが変わるんですよ。絶対に見ないとダメだ。僕は、今、偶然にも、スペルを調べてて、明日公開だと知りました。