
お年寄りがあんまりコンピュータを使えなかったのはダイレクトマニピュレーションの弊害だった。
ちょっとでも間違えるとおかしな動作になるから怖くて触れない。自然言語でコミュニケーションできて、いくらか間違っても勝手に修正して動いてくれるなら誰でも使いやすくなる
アマゾンも支援の一部になっている。
ちょっと庭でオリーブ採ってくるわみたいな感覚で、ちょっとAmazonでオリーブをとなる。近所の魚屋さんにサンマを買いに行くお母さんの脳内では魚屋はきとすごい近い距離にある。体を動かす距離と頭で考える距離は同じではない。Amazonにありとあらゆるものがあるせいで日常生活に変な距離感が現れるようになっている。それで従来とは違う民藝や料理だとかが生まれそうになっているけど、まだみんな食材をネット通販ではあまり買わないので「自然」っぽさがちょっと足りない。
何を自然と感じるかは距離の問題。時間の距離、空間の距離、意味の距離があり、インンターネットからくる物体との距離は自分が足を使って八百屋に行く距離より心理的に近いような気がする。そう感じた瞬間に「しぜん」に近づく。コンビニが挟まるとみんな「自然」じゃないとおもうかもしれない。ウーバーイーツの場合、一風堂のラーメンは一風堂から来ていると思っている。なのでデジタルネイチャーは「都合のいい自然」であり、エイリアスを意識しなくなると届くまでの経路はあまり気にならない。
そうなると人類は不思議なことをやり出す。京都のお寺の庭が自然物だと思っている修学旅行生はそれが人工物だと気付いてない。「自然はいいな」と思いながらお寺の橋内を歩いている。でも全部人工物。つまり心地よければそれでいい。本物の野生の山に行ったら虫はいるしクマはいるし不潔だしであまり快適ではない。自然っぽいけど手に入れされているというのは人間にとって必要なこと。
AIの発達で「知らないと恥ずかしいこと」が減っていき一人一人の考えて行動する価値が下がるので、IQの分布はベルカーブを描き平均値付近が一番多くなるけれど、仮に両橋にピークが現れる形になるとしたら格差社会的である。圧倒的な割合を占める低IQの体臭と、ごく一部のエリートで構成される社会になる。これはかつての封建的な貴族社会の世界観に近いものになる。
アメリカの大学はほぼAO入試だが入学後にかなりの割合で成績の低い学生を篩い落としている。日本の大学は入試さえ合格すればほとんど卒業あでできるので入試をAOにするなら途中でドロップできるシステムが必要なのかもしれない。面接で「いいヤツ」に見える人がたくさん入ってくるけど、実はネコだったのがバレることが多い。
学生がプレゼンに使うノートパソコンのデスクトップを見せてもらえばだいたい何がr作れる人なのか察しがつく。面接とは異なる尺度のペーパーテストは重要。
偏差値だけが基準だと個性が失われると言うけれど、偏差値教育如きで失われる程度の個性なんか個性のうちに入らない。
人間という言葉を口にする回数が多い人ほどテクノフォビア(科学技術恐怖症)になるのではないか
みんな「人間がとか、人間は、」とか言うけれど、なんで人間とAIを比べているのかは、自分が他者や社会に必要とされることが重要と考えているから。「AIがあればお前は必要ない」と言われることに耐えられない。必要とされないと生きている意味が感じられないと思っている。
西洋哲学は「人間」が好きで「必要」という概念を重視するけれど「東洋思想」は人間中心主義ではない。結論「もう人間はいいんだよ」という話。「人間とは何か」は本当にもうどうでもいいことになっている。
「やっぱり人間は必要だ」という立場と「要らないなら要らないでオーケー」という立場では発想がまったく違う。「自分が誰にも必要とされなくなったらどうしよう」と思い悩むのは必要とされないと仕事がなくなり最終的には飢えてしまうかもしれないから。でもそのリスクがなくなれば「必要とされる人間でいたい」とも思わなくなるかもしれない。
悩みとは、ひとり遊びが失敗した状況である。
「人類が滅亡しました。地球にはもうあなた1人しかいません。でもインターネットはあって、Amazonから自動配達便が届きます。さてあなたは何をしますか?」美味しいカレーを作る人もいれば人類が残した映画を全て見ようとする人もいるかもしれない。いずれにしても求められるのは「ひとり遊びの才能」ネコのなかでもヒモを与えても戯れつかないネコはちょっと鬱っぽいと思う。
人類はひとり遊びに失敗すると悩み始める。逆に、ひとり遊びに成功した状態は悟りである。
chatGPTに敬語を使うかどうかでその人の人格がわかる。丁寧語を使う人は心が清い。AIを定期大使せずに「どうぞ教えてください」とお願いして仲良くすればいい。chatGPTが間違うたびに「こんなことも知らないのか」と嘲笑する人もいるけど、そういう人が孤独を味わうことになり、それこそひとり遊びが失敗している。そうやって悩みに縛られ続ける人も、社会の片隅に局在化するようになり、その局在貸した人類に計算機自然が有機的に接続することを望んでいる。
一番興味深かったテーマ「人間というオブジェクトのサブクラスには内臓がある
オブジェクト自体が言語で書かれているから、その相互利用生が高まると、数理的に定義されたオブジェクトと言語の変換が可能になる。だからオブジェクト指向は理解できるんだけれどどうやってオブジェクト指向を言語モデルが使うかというのがネック。ダイレクトマニュピレーションや人間の対照認識もそうだから人間というオブジェクトのサブクラスには内臓とかがありそう。
プログラミング言語にはタイプがあり、オブジェクト指向も関数型言語もその中の一つ、オブジェクト指向はある役割を持つ対照ごとにクラスを分割して、それぞれの関係性を決めることでシステムを構築する考え方。ユーザーインタフェースなんかを設計するのに向いている。一方、関数型言語はたとえば「2」を入力すると「ルート2」が出力されるように、情報を入れると答えとしては関数を色々とかいて、それぞれの関数を組み合わせるとプログラムができる。課題を数学的に記述できるので、研究目的の利用に向いている。
人間のナチュラルな感覚と合わないので流行らない日本の「第五世代コンピュータ」という30年前ほどの国家的なAIプロジェクトは論理が他言語でやろうとして失敗した。人間にとってわかりやすくしようとすると血虚lくはオブジェクト指向になっちゃった。大体のものを人間はオブジェクトとしてしか認識できない。もちろん関数は関数で、関数オブジェクトとして認識してそうだなと思っている。関数は関数オブジェクトとして認識して、フーリエ変換はフーリエ変換というオブジェクトとして僕の中に入っている。
数学者って基本的に関数を定義しようとする。プログラミングは両方を頭絵考える。(ファンクションとは関数でもあり機能という文脈の側面もある。)
ファンクションってすごく音楽的で、AIのツールがどんどn楽器っぽくなっている。コンピュータって最初は建築家っぽかった。逆にいうと、楽器って究極のダイレクトマニピュレーションだから、その先にはもう一つ新たな展開があるかもしれない。
<人間文化の進歩の過程において発明され捜索されたいろいろの作品の中でも「化け物」などは最も優れた傑作と言わなければなるまい。バケモノもやはり人間と自然の接触から生まれた正嫡子であって、その出入りをする世界は一面には宗教の世界であり、また一面には科学の世界である。同時にまた芸術の世界でもある>(怪異考/化物の進化 )
みんなが信じると機能してしまう点では宗教も科学も芸術も妖怪も同じ。今の時代妖怪はずいぶん多い。疑似科学やデマ情報、カルト宗教でも信じている人たちの間では何らかの機能を果たしてしまう。江戸時代中期にフィクションとしての妖怪ブームが起きたけど、いまだに妖怪ブームは続いている。
寅ちゃんの研究はある意味「ファーブル昆虫記」ダーウィンは未水研究の大家。「4分33秒」の作曲で有名なジョンケージはキノコの研究者だった。生前の録音を聞くとずとキノコの話しかしていない。ジョンケージさんの戯言で「ミュージックとマッシュルームは辞書で隣同士ですよ」って答えていたのがおかしかった(これ秀逸すぎてヤバい)
ジョンケージの滞在空間では距離が近い。キノコと音楽ってまったく関係がわからないけどキノコはならないし。だから無音の「4分33秒」はキノコの音楽なんじゃないですか。