From 大阪
教育の質とは「希少な機会と数」だと思っている。
①一般的に面白いと言われる人と親密になれる機会と数
②世界を轟かすような起業家リーダーから話を聞ける機会と数
③特級呪物と半強制的に関わらなければならない機会と数
④嫌いな人と費やす時間の機会と数
機会と数
①から④に挙げた機会と数は多ければ多いほど、教育の質は高いのではないかと思います。「完璧な教育」とは消費できる時間(1日6時間以上)を超えた機会と数が毎日あることかもしれない。それはオファーのように。
そこで、むしろ教育の質が低い状況に目線をあててみた。常識的な解釈とは異なると思う。
①一般的に面白いと言われる人と親密になれない
面白いとは「意外性×共感」だと僕は定義しています。誰からみても予想をしなかった行動が共感される人間と心の繋がりがある機会と数が少ないというのは、どういう状況なのだろう。反対で考えてみるとわかりやすそう。

・予想ができない行動、確かに多くのかたに共感されている
・予想ができる行動、確かに多くのかたに共感されている
・予想ができる行動、あまり周りからは共感されていない
・予想ができない行動、あまり周りからは共感されていない
マトリクスの左上に当てはまる人間を書き出してくださいと言われて、書き出せた人と会う機会があるだろうか。
・右上、右下、左下が多い
・左上がいない
・いるけれど自動的な機会は無い
あなたは機会と数は少ないはずだ。また、そのライフスタイルの根源的な機会を考えると見えるかもしれない。
②世界を轟かすような起業家リーダーから話を聞けない
起業家リーダーとは「リスト数が0からこの世にないものを生み出せるひと」だと僕は定義しています。AI、SNSマーケティングのような市場にすでに存在するビジネスモデルの価値創出ではなくて、見聞きしたことのない概念や考え方や仕事を作り出して、お客さんが喜んだり幸せになっている状態。
これを作り出せているひとから話を聞く機会と数が少ないとはどういうことなのだろうか?

・お客さんを自分で集めたり、お客さんがいないところでお客さんを作ったりすることはできないひと
・すでにある仕事のなかから、何を選ぶのかが「常識」であると考えているひと
・自分の心から新しいものを考えるのが苦手なひと(考えてみたけどすでにあったアイデアは無価値)
・あるものではなく、ないもののために生きているひと
そんな人から話を聞くための時間が毎日なかったり、ふと思い立ったときに「これってどう思う?」と上記のような人に聞ける関係性を社会で作ったことがないなら、あなたは機会と数が少ないはずだ。
③特級呪物と半強制的に関わらなければならない機会と数
特級呪物とは「扱いが難しく、厄介で手に負えない」ような「社会的な相場とズレて歪なポジショニングや規格外のライフスタイルを歩んでいるひと」のことを差して呼ぶようにしています。特級呪物と半強制的に関われない人とは、どのようなひとでしょうか?

・(たとえば自称進学校出身の生徒からみて、学校の半分は大学に行けず将来地元でフリーターをやっている生徒のような)IQ/EQ/偏差値が3段階ほど低い人と数年間過ごしたことがなく、温厚なビニールハウス栽培のように変数の高い悪影響を遮断して生きてきた人
・「嫌いなひとや危ないひとと関わるのは良くない」と思い込んでいて、温厚で似た価値観のひとと共生してきたひと
半強制的に関わる環境は「普通の教育」を受けてきたひとならわかると思う。殺伐としていて、理不尽や競争がある。また、「普通の教育」を受けたと思っているけれど、実はそうではないことも多いのではないかと思っている。「本当の普通の教育」を社会に出てから知った人も多いのではないだろうか。
ビニールハウス栽培というのは、いわゆるエリート教育を受けてきたひとのことを言う。ぼくはエリート教育を受けてきたひとと、Amuse!で関わることも増えたし友人もそっちが多い。ぼくがリスペクトされるのも「自分で意思決定できること」だったり「楽しそうにしていること」だったり「色んな人と話せること」だったりする。ビニールハウス栽培で育てられた人はカオスに強くない。変数の高い悪影響を遮断することを善として育てられているのではないかと考えている。
変数の高い悪影響を遮断して育てられると、いざ変数の高い悪影響を受けたときの対応がわからないまま社会を生き抜かないといけない。だから変数の高いを形容する「特級呪物」と出会ったときに、変に合わせすぎてしまったり、反発しすぎてしまったり、断絶しすぎてしまったりする。実は世の中に「特級呪物」はめちゃくちゃ多いのだが、それを知らずに平和な社会で生きているひとは多いと感じる。半強制的に特級呪物と関わらないで育ってきたのであれば、あなたはそこの筋肉がまったくついていないのかもしれない。
④嫌いな人との機会と数
嫌いな人とは「価値観が違うことで、人生に悪影響があるひと」だと思います。例えば僕は長い間「嫌いな人はいない」と豪語してきましたが、そんなことはないなと思いました。
精神的に嫌いな人はいないですが、価値観が違い人生に悪影響がある人となれば、かなりの人数が嫌いだなと思うようになりました。
やりたいことが増えるほどに、時間の価値は大きくなります。そうすると時間を失うことにストレスを感じるようになってきてしまいます。それと、価値観が広がるスピードを比較してしまうと、僕の場合は時間を失うことのほうが早いなと思います。だからこれまでは「嫌いな人なんていない」と話していましたが「嫌いな人は多い」なと思い返しました。
・搾取された経験がない
・心傷が何十回も続いたことがない
・気を遣ってくれる優しい人に囲まれている
このような人は、嫌いな人と費やす時間の機会と数が少ないのではないでしょうか。嫌いな人と費やす時間が多いと、世界には多くの人がいるのだなと考えさせられます。自分と違う人ばかりだなと気づきます。あえて嫌いな人と付き合うようにすると、価値観にひらめきや学びがあり、物事を捉えるときもだんだん客観的になっていきます。
質の低い教育で育つと、集団が必要になるとタイトルに書きました。
このような4つのタイプの人間との「機会と数」が低い場合を、「質の低い教育」と僕は定義しました。集団が必要になるというのは、社会への依存を意味します。ここまで書いてきたような、相対的に希少な人間との機会と数が少ないと、おそらく「ひとりで生きることが難しいと感じる人間」に育つのではないかと思います。それを僕は質が低いと判断することにしてみました。実はほとんどの人は、学問や技術力が自らへの渇望に対して、そこまで生きていないのではないか?と感じる機会が増えたからです。
また、教育のゴールを「自立」とした時に、本当に心から自立を感じられる瞬間とは、このような様々な価値観の人間との本質的な機会と数が多くなっていく時なのではないかと考えました。
「ひとりで生きることが難しいと感じる人間」は依存する対象を見つけるしかありません。依存する対象を見つける場合、自らの感覚や価値観ではなく「第三者の意見」や「二次情報」を得る必要が高いと思います。
そうなると、「集団に対する安心感」を得やすくなるのではないかと思ったのです。実際に世界を生きてみると、学問や技術力以上に人間関係で悩んでいる人が多いと感じるし、もしかすると、教育の質が低いことで集団が必要になるなら、若いうちに、特異な人間と費やす時間の機会と数を増やさないと、人間関係で悩んでしまうのではないかなと思います。
世間のレールの因数分解として活用できれば幸いです。