陰翳礼讃pdf

日本の学校では国語の勉強として当随筆をしばしば教科書に載せるらしい。

残念なことに、僕の記憶には、その煌めく文章を目にした記憶がない

もし、谷崎潤一郎を頬杖ついて怠けていた教室の一角でお目にかかれたならば、どれほど幸運なことだろうか

だが今こうして、縁を通わせ、若干26歳の僕が出会える運命にあったのだ。これがアメリカにいたようでは厳しい。

陰翳礼讃という名書を読んだ。とはいってもamazonで本の表紙に見惚れたようなもので、その随筆を根拠にしたものではないが、茶室を想起させる写真に浮かぶ「陰翳礼讃」この4文字。たかが文字なのに、うっとりと身を寄せたくなるほど、荘厳で魅力的な4文字に見えたのだから、仕方ないし、

それ自体が、僕自身が日本人である源流にたどりつくべき根拠となっているのだろうとまで、想像を掻き立ててくれた。
単に想像力とか、熟語力ではない。語感から滲み出る佇まいと、それを受け止められる日本人に備わった感性が、僕にもあっただけの話だと思う。

どんな随筆であったか?と特徴を聞かれるならば、正直難解な感性と比喩表現、そして日本の文学知識などが常に散りばめられた文脈を追うような構成であり、とても読みやすいと推薦できる本ではないのだが、

そもそも、この陰翳礼讃を読む意義のところに、読みかたで言えば小説や漫画的で良いだろうし、理解する、知識を蓄えるということではなく、心の奥底に隠れて忘れかけていた、私たちに秘められた感性を、少しばかりでも取り戻したり、それを解放することを肯定してもらったりすることが先決だと思う。

だから、難解な書物といえば、否定できないが、解読しようとする必要があまりない。例えばルイヴィトンのブランドイメージや背景まで理解しようと努めていないものでも、それを着こなし、楽しむことができるのと一緒で、いわば、美術館や映画館の映像作品をみて、気がつけば没入して、なぜか自分がノスタルジックになれるような物質ではないか。

歴史の教科書に出てくる海軍や幕末の武士が、遠い存在のようで、自分の意志と重なる安心感を抱いたり

江戸の浮世絵のイラストをみたときに、これが自分たちのルーツとは思えないけれど、その描写というか楽観的な佇まいが、現代のパロディやエンターテイメントと同じなにかを感じたり、

日頃使うアプリケーションがどれだけ発達していても、「古き良きを大切にする」とか「謙虚と奥ゆかしさ」みたいな子供の頃から耳に飛び込んだあの決まり文句を聞くと、なんか昭和的なダサさを感じながらも、なんだかんだそっちの方に旗を振るし、それがアイデンティティだとそれなりに納得感を持てる心を持っている

やはり日本人なのだなと、改めて実感する。

黒と白、光と影、そのようなコントラストから生まれた創作物ではなくて、感性の源流がすべて侘寂にあるようで、その侘寂に根拠たるものは必要なくて、僕らが生まれた時からある「月」や「川」や「草原」や「そよ風」や「日陰」や「炎」をみて、ただ美しいと感じるそこを大切にすることが、かっこいい。いわゆるロックンロールだ、happyだ、これだけあれば十分。みたいなことなんだと思う

みたいなことで、どれだけ人生での想像力を掻き立てることができるかを知る、というか

したたかにこのような時間を取ることの徳をもう一度覚えてみるために、大切な随筆であり、逸品であった。

ここが僕たちの、

ケンカをしない、みんな共存できる居場所なのかもしれない。