もちろんキャンプ場を経営したこともなければ

何万人に対してYouTubeをあげたこともなければ

テレビで冒険家として講釈を垂れるわけでもないけれど

本質的なところで、同じくらいの純度で

もうすぐ27歳になる身としては、これでもかとくらい

旅というものに真剣に、田舎のことを何度も考えてきた

改めてこんな感じだ。

地元の乾涸びた川。

2013 高校 珍しいメンツで集まった

山形 夏 鶴岡で有名なダダちゃまめを朝から作った

日本一周ではじめて降り立った大阪

ママチャリ旅 7年前の昨日だわこれ。

群馬 暴走バイクヤンキーの集会場で野宿

北海道の公園

奥多摩でペットボトルロケット

樹海でキャンプ地つくり

滋賀で子供と魚取り

高知県で川遊びに公園でBBQ

雲取山の頂上でカレー

淡路島のバーベキューエリア

長岡花火前に買い出しで田舎の国道を歩く

岐阜の山奥にある集落でスイカを食べる

兵庫県の公園で野宿した朝

警固公園で飲みオール

須磨海岸のテラス席

湘南のバーベキューサイトでイベントの決起会

シェアハウスのベランダでパーティ

支笏湖のふもとでピクニック

前原で朝から庭でシーシャを嗜む

牡蠣小屋で海をみながら小休憩

ゴミ捨て場がおしゃれな廃車の家に住む

勝浦の海で遊ぶ。

俺はこれを、エモいとは思うけれども、一切すごいだなんて思わないし

本質的な会話の中に、このような自分の持ち物ではない実績のような妖艶を見せびらかすことは、全くかっこいいとは思わない。

見飽きたようなコンテンツかもしれないけれど、

このようなコンテンツに対してどこか「すごい」に似た感情を生むと思っている。そしてそのすごいという

感情が大きければ大きいほど、僕はこの世界が異常なのではないか に近い感情を持ち合わせることも伝えておきたい

コンテンツのためにコンテンツする人生における虚無感というか

これ時代はいわば切り取りブームのようなもので

今はSNSの時代であって、インターネット=SNSとなっていて、
多分このブロマガ自体も、SNSの何かとしてとらえられることが多いと思う

SNSというのは一部であって、コンテンツである

そんなコンテンツのなかで非常に有益性の高い最短攻略ガジェットとして漂うのが上の画像で

誰もがみたことあるけれど、とてつもなく小さな余剰として比較生産をし続けている

お祭りで食べるのは焼きそばか、お好み焼きか

という問答に膨大な時間が使われ、

そもそもお祭りいかないんだよねっていうYouTubeがどこか先駆者としての立ち振舞いを見いだす

全体集合として今日の矛先が すごさ に向いているが、

すごみ に純粋な部分はなかなかピックアップされない

すごみも感じているが、すごさによる影響が強すぎてしまう

だからこそ、自分で経験したり、つくったり、見に行っておいて

画像のような すごさ は好きではないと思ってしまう

マーケティングの土壌として

いわばセルフブランディングのルーティンワークとして継続的にお土産にしていくけれど

それ自体に自己実現欲求を超えるすごみや

幸せの臨界点を垣間見ることはほとんどない

自分にメリットがあることが、思っているよりも楽しくできる

ダイエットしてたら、納豆も好きになった に近い

でも、納豆を食べ続けるということは

納豆を本当に好きだと神格化した虚構に近しいアイデンティティーを続けなければならず

よく、○○を10年間続けたけれど辞めましたというのは

その象徴だけを録って切り上げると、申し訳ないけれどもどこか

経験と思念のミスを感じざるをえない

属人性とファンがいるから、ある程度すごさを出してしまうけれど

運転になれると事故をする程度のハウツーな気がしている。

当たり前でしょっていう話で

俺的にはその、当たり前でしょ勢力が、当たり前でしょを武器に土俵に立ててしまうことがおかしなことだと思っている。

コンテンツの比較競争を追い続ける人生ほど儚いものはない。

それを、(他のものよりも)エモいと高らかに叫ぶことの職人が増えていく世の中だけれども

俺はそういうことではなくて、自分がいいと思ったものをいいと思い、なぜそれがそう思うのかを伝え

僅かな世界の宝からしっかり汚れを取り除いて、自分だけの側面だけを取り残して、

すごい ではなく カッコいいと思えるアイデンティティをこれからも作っていきたいと思う

いつでも地元のヤンキーをやっているあいつらがカッコいいしエモいと思えるのは

不変であって、それは佇まいからくるものなんだ。

そこに戻った方がいいのではないかとか

より高みを目指す人生【のほうが】楽しいだなんて

思ってしまったこともあるけれど、やっぱり違うと今なら断言できる。

海外もカッコいいし、茅ヶ崎のあいつらもカッコいい。

生まれ育ったサザンビーチのテトラポットで夕焼けを眺めるその憧憬を見つめる自分もエモければ

さんざん悩みまくった挙げ句、辿り着けなかった高みを期待されている人生を俯瞰してもエモいと思える。

だからこそ、すごいとは闘争であり、カッコいい、エモいとは佇まいなんだ。

カッけえだろ。
すごくねえんだよこれは。